1,約束 (ボロミア5歳〜10歳、ファラミア0歳〜5歳0歳〜3歳)
「昔、広い海の中にヌメノールという名の大きな国がありました。ヌメノールには人間だけでなく、永遠の命を持つ美しいエルフもたくさん住んでいました」
「エルフは母上と同じくらい美しかったのですか?」
「まあ、この子はいつの間にそんなこと言えるようになったのかしら」
「みんな言っています。母上はエルフよりももっと美しいと・・・」
「でもヌメノールはあるとき海の底に沈んでしまいました。王様と二人の王子だけが、船に乗ってこの中つ国までたどりついたのです」
「じゃあ僕たちはみんなその王様の子孫なの?」
「そうですよ。ボロミア、私たちは皆ヌメノールの血を引いています」
ドアが開く音がした。父が来たらしい。俺はあわててベッドにもぐりこんで寝たフリをした。
「ボロミアはまだ一緒に寝ているのか。もう一人で寝かせた方がいい」
「この子は本当に体も大きくてしっかりしています。でもまだたったの五歳です。もう少し甘えさせてあげてもいいのでは・・・」
「そろそろ執政の跡継ぎとして教育を始めたほうがいい。ボロミアは素晴らしい執政となるだろう。わが父エクセリオン二世以上の執政として、ゴンドールに永遠に名を残すに違いない。お前は本当によい子を生んでくれた」
「もうすぐ二人目の子もうまれます。お願いです。次に生まれるこの子もボロミアと同じように大切に育ててください」
「何を言っている。二人とも大切にするに決まっているではないか」
「もしこの子が生まれた後、私の心が破壊され、命を失ったとしても・・・。闇の帝王サウロンはもうすぐ復活します。私の体も心ももう蝕まれています。あとどれくらいこうしてお話しすることができるのか・・・」
「また何か夢を見たのか!お前は疲れているのだろう。何も心配せずにゆっくり休めばよい。無事に子供が生まれれば体の調子もよくなる、それまでの辛抱だ」
俺は父と母の会話を全部聞いていた。次の日母は俺を連れて城の外に出た。ミナス・テリスは街全体が高い塔のように作られていた。一番高いところにある城の庭からは、外の景色がよく見えた。東にはモルドールの火を噴く滅びの山、西には頂上に雪の残る高い山が見えた。母は決して滅びの山の方角は見ない。必ず西の方角を見る。
「あの雪山の向こうには海があります。海に沈んだヌメノールも、エルフが永遠の命を授かって生きる国もすべてこの先にあります。私たち人間は死んだらどこへ行くのでしょうか」
「母上は死んだりしません。僕が守ります。サウロンが復活すると母上の命は危ないのですか。サウロンはそんなに強いのですか?」
「私たちの話を聞いていたのですか?サウロンはまだ復活していません。でも怖ろしい魔物が次々とサウロンのところに集まっています。エルフの血を引く私の体はサウロンの力が強くなるほど衰弱してしまうのです」
「僕は大きくなったら誰よりも強くなります。サウロンの周りにいる魔物を全部倒し、最後にサウロンを倒します。だから母上は僕が大きくなるまで待っていてください。必ず母上を守ってみせます」
「ボロミア、あなたは私よりも生まれてくるこの子とこの国ゴンドールを守ってください」
「わかりました。僕は母上もゴンドールもすべて守れる強い人間になります」
俺はこの時母と話したことは、いつまでも忘れなかった。それが母と話をした最後になってしまった。その日の夜、母は急に体の具合が悪くなって病院に入院した。父は急いで俺と生まれてくる弟のために乳母や侍女を捜した。まだ弟はうまれていなかったが、俺は絶対に弟であると信じていた。無事に弟が生まれれば、また元のように母と一緒に暮らせる、今度は新しくきた弟も一緒に、そう信じていたから母と離れても少しも寂しいとは思わなかった。
母が病院に入ってから一ヵ月後、9月の満月の夜、弟は生まれた。俺は8月生まれだから誕生日は一ヶ月違う。弟はファラミアという名前をつけられた。すぐにでも母と弟に会いに行きたかったが、どちらも体調がよくないということでなかなか会わせてはもらえなかった。
ようやく弟に会えたのは、もう秋も終わり近くのころだった。そのころになっても母には一度も会わせてはもらえなかった。父に連れられておそるおそるその部屋に入った。弟はベッドで寝ていた。
「ファラミア」
そっと呼びかけると目をあけた。薄茶色のやわらかな髪の毛、藍色の目、小さな手足、小さな子供など見たことのない俺にはなにもかも珍しく、あきることなくいつまでも見ていた。そっと髪の毛や頬に触ってみる。柔らかくてあたたかかった。俺は小さな弟に夢中になっていた。だからこのとき父が一言も話さず、弟の顔も見ていないことに全く気がつかなかった。
冬が来て新しい年になっても、母には会わせてもらえなかった。城には俺のためにたくさんの先生が来るようになった。字の読み書きや計算、地理歴史などそれぞれの科目に別の先生が来る。剣術や弓の稽古も始まった。俺は勉強よりも剣や弓の稽古に夢中になった。少しでも早く強くなって敵を倒したかった。勉強や稽古の合間にはよく弟の部屋にも行った。弟は乳母とたくさんの侍女達に囲まれて大切に育てられているようだった。ただ父が全く弟の部屋には来ないということが気になった。母が病院に入ってからは、俺もめったに父には会えなくなっていた。仕事の時意外父はいつも母のそばにいるようだった。前は必ず父と母と俺の三人がそろって食事を食べていた広い食堂で、一人で侍女達の用意してくれる食事を食べることが多くなった。
夏になり、母と会えなくなって一年近くが過ぎた。俺が剣の稽古をしている時珍しく父が見に来た。
「ボロミア、だいぶ上達したようだな」
「デネソール殿、ボロミア様は本当に熱心に稽古をされてます。この年でこれだけできるということはめったにないことです」
「これからもよろしく頼む」
剣の先生は父上に礼をして出て行った。
「お前はそれほど剣の稽古が好きか、勉強もこれぐらい熱心にやってくれればよいのだが・・・」
「父上、僕は早く強くなって敵を倒したいのです。そして母上に会いたい・・・」
「お前ももうわかっていると思うが、母の心は壊れている。話すことも笑うこともできない」
「それでもいいです。一度会わせてください。そうしないと僕は心配で心配で・・・」
「それほど言うなら会わせてやろう、だけど期待しないほうがいい」
父に連れられて初めて母の病室に入った。一番奥の広い部屋、そこに母はいた。いすに座り目を開いていたが、その目は何も見ていないようだった。
「母上、僕です。ボロミアです」
話しかけても何の反応もない。それでも俺は夢中で話しかけた。
「僕は今いろいろな勉強を一生懸命やっています。それから剣と弓の稽古もしています。剣はすごくうまくなったと先生にもほめられました。もっともっと上達して必ずサウロンを倒します。だからそれまで待っていてください。きっと僕が倒してみせます!」
何を話しても母の顔は変わらず、返事もなかった。そこへ乳母がファラミアを抱いて入ってきた。父は不機嫌な顔になった。
「この部屋に来てはいけないと、言っておいたはずだ」
「でもフィンドラス様はファラミア様のお顔を見るとたいそう喜ばれます。だからときどきこうしてお連れしています」
乳母は弟を抱いて母の前へ進んだ。今まで何も見ていなかった母の目が、弟だけはしっかり見ていた。弟の髪をなで、そしてかすかに笑っていた。俺が何を言っても無表情なのに・・・たまらなくなって泣きながら病室の外に出た。父が追いかけてきた。
「どうして僕が何を言っても答えてくれないのに、ファラミアを見て笑っているのですか」
「ボロミア、お前が悪いのではない。もう二度とこの病室にファラミアを入れさせたりはしない」
「いえ、会わせてあげてください。母上はファラミアを見て喜んでいました。僕はがまんします」
「お前のことを思い出す日もきっとくる、フィンドラスはお前のことを一番愛していた」
また一年が過ぎた。二歳になってもファラミアは歩くことも話すこともできなかった。父には禁止されていたが、俺は何度もファラミアの乳母に頼んで一緒に母の病室に入った。母の様子は変わらなかった。俺がいくら話しかけても無表情だったが、ファラミアの顔を見るとかすかに微笑んだ。俺はただ黙って母の顔を見ていた。
ファラミアは四歳になってようやく歩けるようになり、片言の言葉を話すようになった。相変わらず体は小さく、年齢の割りに体の大きい俺と並んでいると十歳以上年の離れた兄弟に見られた。歩けるようになった弟の手を引いて、俺は母の病室を訪れた。片言しか話せないファラミアとだけ母は会話ができた。母とファラミアはお互いによく似ていた。同じ藍色の目と薄茶色の柔らかな髪、俺の顔は父に似たのだろう、母とはあまり似ていなかった。母と弟は、ほとんど言葉が話せなくても会話ができていた。ただ目を見るだけで、心が通じていたのだろう、ときどき笑い合ったりしている。俺は二人の邪魔をしないように、そっと近くで見ていた。
ファラミアを見て喜ぶのは母だけではなかった。俺はよく弟の手を引いてミナス・テリスの街を歩きまわった。俺一人が街を歩いていても、特に誰も気にしないが、ファラミアと歩いているとたくさんの人が集まってきた。みんながファラミアの顔を見てそのかわいらしさを褒め称えていた。普段怖い顔をしている城の衛兵ですら、ファラミアを見るときは笑顔になっていた。別に俺が褒められているわけではないが、それでも悪い気はしないので、よく弟を連れて街を歩いた。
俺が十歳、ファラミアが五歳の9月、ちょうどその誕生日の日に事件は起きた。滅びの山から激しく炎が上がり、何百人ものオークにミナス・テリスの街は取り囲まれてしまった。城門が固く閉ざされ、すぐにオスギリアスにいた軍隊がきたので、街にオークが入ることはなかったが、戦いは三日も続いていた。ファラミアは怖がって、ずっと城の中に閉じこもっていたが、俺と父はずっとその戦いの様子を城壁の上から見ていた。父は自分が戦うことはなかったが、的確な指示を軍隊にも城の衛兵にも与えていた。
「ボロミア、よく見ておけ。やがてはお前もこうして戦い、国を守らなければならない時がくる」
「はい、俺も父上のあとを継いで必ずゴンドールを守ってみせます」
四日目の朝、ようやく戦いは終わった。敵のオークはすべて倒されたが、ゴンドールの兵にもかなりの犠牲がでたようだった。だがこの戦いはもっと大きな犠牲がついた。もともと壊されていた母の心は、この怖ろしい戦いを敏感に感じ取り、完全に破壊されてしまった。目が覚めている限りわけのわからない言葉をつぶやき、怖ろしい悲鳴をあげて暴れるようになった。父に母の部屋へは決して近づいてはいけない、と言われた。俺はそれでも何度か母のいる病室の近くまで行ったが、いつも怖ろしい悲鳴が聞こえてあわててそこから逃げてしまった。
母に会えないまま冬が過ぎ、また春が来た。5月、母の誕生日に花をプレゼントしようと思い、ファラミアをつれて街に出た。俺はどんな花が喜んでもらえるのかさっぱりわからなかったが、小さな弟は迷うことなく花を指差していたので、それを花束にしてもらった。その日は母の病室から何も声がしなかったので、そっと部屋の中に入った。母は眠っていて、父がそのそばのいすに座っていた。父は何日も寝ていないようだった。
「何しに来た、ここに来てはいけないと言ってあるはずだ」
「あの、今日は母上の誕生日なので、花を買ってきました」
「もうそんな日になるのか、すっかり忘れていた。ボロミア、お前の母は助からないかもしれない」
「あの時のオークがいけなかったのです。俺がもう少し大きくなったらオークなんか全部やっつけてやります」
「お前は頼もしいな。それに比べてファラミアはまだこんなに小さいのか。五歳になるというのに、二歳の子供と同じだ。普通ではない。こんな普通ではない子を産んだばっかりにお前の母は、フィンドラスは・・・オークが来た日もちょうどその生まれた日だった。ファラミアは災いばかりもたらしている・・・」
「父上、ファラミアは母上や街のみんなに愛されています。災いなんかもたらしていません」
「もうよい、二人とも早く出て行ってくれ」
二日後に母が亡くなった。棺にはプレゼントに買った花が、まだ枯れずに添えられていた。母は眠っているようで、死んでいるとは信じられなかった。めったに泣かない俺がその日ばかりは大泣きしていた。
「母上、どうして待っていてくれなかったのですか。俺は必ずオークを倒してサウロンも倒すと約束しました。今の俺はまだなんの力もありません。あと少し、あと少しだったのに・・・」
ファラミアはまだ母の死がよくわからないのだろう。不思議そうな顔をしていたが、俺が泣いているのを見て一緒に泣いていた。父は泣いてはいなかった。
「ボロミア、あんまり泣くのはやめなさい。母は苦しみのない西の国へ旅立とうとしてる。お前がずっと泣いていたら旅立てなくなる」
「もう一度戻ってきてください。母上は俺の顔忘れています。ファラミアとばかり話して、俺とは全然話をしてくれなかった。もう一度俺の顔を見て話をしてください。ファラミアだけでなく・・・」
夜、俺はいつまでたっても眠れず、一人で泣いていた。夜中にファラミアがそっと俺の部屋に入ってきた。
「ファラミア!お前は俺のこと心配してここまできてくれたのか」
小さくうなずく弟を抱きしめてベッドに入った。柔らかく暖かなその手触りで、すべてが忘れられると感じた。
「もう、大丈夫だよ。お前さえそばにいてくれれば・・・大好きだよファラミア」
−つづくー
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